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#71 2011.06.24 - 7.3 6×7判 モノクロ 11×14in. 23枚
なぜ写真を撮るのか?と問われれば、それは写真を観たからだ、としか言い様が無い。だからカメラを持って町に出ても、撮影というより撮影を通して見ることしかしていないし、能動的に目の前の世界に関わりを持とうという意志も無い。たんなる風景が被写体として勝手にやって来るにまかせるだけである。 何も考えないし「考えない」と言う事も考えない。忘却とは忘れると言う事を忘れることだ。と誰かが言っていた。忘れるという行為を忘れる事で内容が忘れ去られる。撮りたいものは何でもいい。カメラを携えれば自ずと撮れるという事態が立ち上がって来る。ただ機械に従うというと機械の奴隷とか淫してる、アニミズムという事かもしれない。四辺形の幽霊。それがフィルムに触れにやって来る。撮るというより機械と撮影者との、そしてそれらをとりまく世界において、相対的にポジションを調整する、という感じだろうか。絶対性など存在しないが同時に存在するような気がしてならない。 全ての写真は世界に予め折り紙の様に折り込まれている。仮に新しい写真を撮れたとしてもそれは既にある折り線とまた別の折り線とがたまたま繋がった、程度の事の様にもおもえる。鶴、亀、奴凧、とクラスの異なるものが折り紙界において平然と同居する様に、異なる場所で撮られた写真が同居する。 なにがしかのコンセプトなりを観たいのでは無く、単に写真が、単なる写真が観たいのだ。少なくとも自分はそうである。 と言ってはみたものの、全て何らかの悪あがきに過ぎないのかも知れない。しかしそれはそれで良いのだとも思う。 新山発現 |
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