「密度ある空気」のために  鈴城 雅文

【ベルリン30日藤生竹志】 ポーランド北東部ウォムジャで29日未明、リトアニア
の首都ビリニュスからドイツのミュンヘンに向かっていた夜行バスと大型トラック
が正面衝突した。この事故で邦人1人を含む8人が死亡し、23人が重軽傷を負った。
在ワルシャワ日本大使館によると、死亡したのは旅券などから東京都世田 谷区のフ
リーカメラマン、 関美比古さん(30)とみられる。

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 手元に短い外電が残されている。しかしきみの身に起きた〈出来事〉を、ぼくが
知ったのは、その外電によってではなかった。
 深夜ひとりの編集者から電話があって、「じつは・・」といったきり、その声はし
ばらく途切れた。事態を知ってぼくの声もまた、しばし途切れたのだったが、そのあと
に自分の口を突いた言葉は、ぼくじしんにも意外なものだった。

「殺るならば歳の順にと、せめて願いたいよ」。たしかぼくは、そうつぶやいて、黙
り込んだ。理不尽であったに違いない。きみは事件ではなく、事故に遭遇したのだ。
だから電話をくれた編集者は、その言葉にいくらか戸惑ったことだろう。でもじつは
もっと戸惑ったのは、言葉を発した当のぼくだった。なぜそのように感じたのか? 
死んだのではなく、「殺られた」のだと。

 つぶやいてしまった言葉は、ついに抜けない刺のようだ。抱えたまま忘れたふり
を、するほかはないと、「お訣れ」にも出かけなかった。じつをいうと、きみの仲間
たちが心血を注いだきみの写真集もまだまだ眺めていないし、その刊行と前後しての
写真展も見ていない。だからときに促される写真集への発言も、いまは固辞するほか
に術がない。
(ないないづくし、だよ。でもあの懐かしい笑顔で、きみは赦せよ。ささやかなエク
スキューズとして、戻らない時間をぼくは書き留めておく)。


 いまもぼくの机の前の壁に、きみからの一枚の葉書がある。送られてきたのは、
1998年の夏の終わり。以来長いあいだピンナップされていたものだから、煙草の煙で
少し黄ばんでしまっている葉書。そう、「carnationT,U」の案内状としてつくられ
た、ポスト・カードだ。遠くに山の稜線を望む、人気のない土地。それがこの国のど
こかであることは、右手の小さな看板の日本語でわかる。しかし看板がなかったら、
撮影場所が、たとえばラトビアの小村といっても、きっと誰も怪しむことはあるま
い。

「carnationT,U」に先立っての、「ララバイ」。その写真展の会場で、ぼくははじ
めて、きみの写真に出合った。そして、そのときの印象を後日、きみに書き送った。
たかが写真を、きみは大切にしすぎているのではないか、と。嫌われて仕方なさそう
な不躾なものいいを、しかしきみは受けとめてくれたのだと信じる。でなければ個展
のたびに案内状をよこし、「いくらかは答えに、なってますか?」と、会場で尋ねて
くれることもなかっただろう。

 きみの写真には〈国籍〉がなかった。だからぼくは、こう書いた。
 ----写真家はモスクワに、リトアニアに赴き、写真を撮った。訪れた土地を写真に
撮ったのではない。訪れた先で写真を撮った。これらの地を「写真に」撮ったのであ
れば、写真は現実の代理ということになる。が、彼の地で「写真を」撮ったのであれ
ば、現実はついに写真の代理へと逆転する。写真家とはこの逆倒を、それが倒錯にほ
かならないと意識して、一身に引き受ける者のことだ。

 きみは、写真家、だった。そのことを尊びながらもしかし、ないものねだりのよう
に、ひとつの疑念をぼくは提示したかった。
 世界のどこにいても、きみは写真を撮った。うらがえせばつまり、世界のどこに
も、きみは赴かなかった。訪れる先々のいわば〈地の霊〉に、侵食されてみる必要
が、きみにはありはしないか。でなければきみの写真は、完成から解き放たれる契機
を、ほかならぬ写真家によって、棚上げにされはしないか?

              *

 きみの写真の、人影の希薄。写っているひとびとの、ばかりではない。写したきみ
じしんの影の希薄。むろんのことそれは、きみがほとんど透明になって、カメラを操
作しつづけた証だ。自己表現だらけの写真に辟易としていたぼくに、きみの写真の透
明性はひどく貴重に思えた(影を落とす透明人間は、人間失格ではなく、透明失格だ
からね)。
 そのような人影の希薄と反−比例するように、きみの写真は、いわば濃密な〈空
気〉を孕んでいった。

 遺された写真集をひもとけば、その空気が一気に溢れでるだろう。その密度に窒息
してみるのも、悪くはないなと、思わないでもないのだが。
 だがためらって、頁を繰ることが、できないでいる。きみは死んだのではない、殺
されたのだと、いまもまだ不穏当に、思うぼくがいるから。殺るならば歳の順にと、
せめて願いたいよ。二十歳以上も、ぼくはきみの、年上だった。

 殺ったのは、だれか? 訊かれても断固、この問いには、黙秘で応じる。「愛の反
対語。それは無視であって、憎しみではありません」。思い過ごしでなければウオッ
カを舐めすぎてぼくはきみに、マザー・テレサの言葉を伝えたことがあったはず。
 でも唐突を承知でいまは聖者ではなく、ポップ・スターの遺言を思い出しておきた
い。アンディ・ワーホル。ぼくが死んだら、と彼は、言葉を遺した。「死んだといわ
ずに、消えたといって欲しい」。

 そう。きみは消えたのだ、チェシャ猫のように。遺された印画紙に漂う、したたか
な密度を備えた、あの空気のなかへ。

5/28/02