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#03/2019.6.28
【緊急ディスカッション】
香港 CALLING――香港民衆行動と
アート・ストライキへの応答


#02/2019.05.24
写真論のメタ=クリティーク vol.2


#01/2019.04.13
写真論のメタ=クリティーク vol.1


写真論のメタ=クリティーク vol.1     ナヴィゲイター:岡井友穂



目次
1.プレビュー
2.レポート
 2-01. イントロダクション
 2-02. 写真史
 2-03. キーワード事典
 2.04. 作家による写真論
 2-05. 文学研究からのアプローチ
 2-06. ジェンダー/フェミニズム
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  リンクが貼ってないところは準備中。
  随時、更新します!

 


1. Preview


写真論とは何でしょうか。
文字通りに受け取るなら、それは「写真を論じる」こと以上でも以下でもないでしょう。しかし、そもそも「写真を論じる」というのはどのようなことなのでしょうか。
例えば、これまで世に数多問われた「写真論」を瞥見するだけでも、そこには作品論があり、作家論があり、写真史の記述があり、あるいは写真というメディアそのものを問う試行があり、さらには写し撮られた対象(被写体)を語ることに重点を置いていたりと、その視点やアプローチの方法、内容、方向性は実に様々です。
また、それらが、メディア論や美学、社会学、哲学、文学、歴史、文化人類学、etc. といった実に様々な領域を横断して語られている場合も決して珍しくはありません。
私たちはこれら多様なテクストの束を、そこで何となく「写真について語られているから」という漠然とした理由で、一括りに「写真論」として了解しているのではないでしょうか。

もちろん、それで支障がないのならば、ひとまずはそのような理解の仕方でも構わないだろうとは言えるでしょう。
しかし一方、「写真についての批評(ないし理論)が必要だ」と感じている人が多くいながらも、実際にはかく言う人々の間でさえ写真批評なり写真理論なりがさほど読まれてはいないという状況も、随分と長く続いているように思われます。また、「写真論は読んでもよく分からない」と敬遠する声を聞くことも稀ではありません。
これは一体、どのような事態であるのでしょうか。そしてまた、その「分からなさ(難しさ?)」とは、一体何に起因するのでしょうか。

ここではまず、以上のような素朴な疑問から始めてみることにしました。そしてそこから、これまでに書かれてきた「写真論」のテクストを実際に読んでみることを通じて、それらが書かれた時代的/社会的背景や文脈等も整理しながら、その論理や概念について検討し、それに即した上で、実際にこうしたテクストがどのように読み得るものであるのか、また、その展開や応用の可能性がどのようなものであるのかを再考していく場を作ることにしました。
それがこの「Open Study/Meeting」です。

ここでは原則として毎回、重要と思われる写真論のテクストを採り上げ、検討していきます。
ただし、ここで行なおうとしているのは講義やトーク・イヴェントといったような一方向的なものではなく、また、発表者とコメンテイターの役割が予め割り振られた学習会といったものでもありません。
企画者の役割は、あくまで navigator、ないしは facilitator というものにしたいと考えています。つまり、参加者それぞれが自分で考えるための呼び水として、また、時にはそこでの議論を整理し方向を確認していくことが、ここでの企画者の役割だと言えるでしょう。
換言するならば、参加者も企画者もそのつど同じテクストと向き合って考え、それぞれの疑問や理解、あるいは発想や発見の出会いを通じて共に学び合う、水平的で開かれた場であることを目指して、私たちはこの連続企画を「Open Study/Meeting」と呼ぶことにしました。

現在のところ、月一回くらいのペースで一冊の本を何回かに分けて読み進め、検討していくことができればいいのではないかと考えています。
第一回から当面の間は、西村清和『視線の物語・写真の哲学』(講談社選書メチエ、1997年刊)をイントロダクションとして採り上げ、検討していきます。
以降の詳細は未定ですが、ヴァルター・ベンヤミン、スーザン・ソンタグ、ロラン・バルト等、写真論の「古典」と看做されているテクスト、また、鈴城雅文、多木浩二、港千尋、清水穣、ヴィレム・フルッサー、ヴィクター・バーギン、ロザリンド・クラウス、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、ハンス・ベルティンク、エルヴェ・ギベール等々もいずれ採り上げていきたいと思います。


2. Report


2-01. イントロダクション

本日より「Open Study/Meeting」ということで、ここでは写真についてこれまでに書かれ読まれてきた「写真論」というものを対象に、「写真論のメタ=クリティーク」と題して話を進めていきたいと思います。
一応、今回が第一回ということで、イントロダクション的な話を少ししてから、本題に入っていこうという感じで始めたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。
本日より「Open Study/Meeting」ということで、ここでは写真についてこれまでに書かれ読まれてきた「写真論」というものを対象に、「写真論のメタ=クリティーク」と題して話を進めていきたいと思います。
一応、今回が第一回ということで、イントロダクション的な話を少ししてから、本題に入っていこうという感じで始めたいと思います。どうぞ宜しくお願いします。

そもそも写真を論じるって一体何だろう、と。
写真を論じる方向性や方法論、その他様々なことによってこれまで数多の文章が書かれてきたのだけれども、それらを一緒くたに「写真論」と呼んで等しなみに扱ってしまうことで、何か起きている混乱などがあるのではないか? と、そういう僕自身のいままでの読書経験とか語ってきたことからの推論で今回の企画を立てました。
また、このシリーズではこれから、いわゆる「御三家」と呼ばれるヴァルター・ベンヤミン、スーザン・ソンタグ、ロラン・バルト、さらにはそれに加えてヴィレム・フルッサー等の議論――いわば写真論の「古典」と看做されているもの――といった、その時々で重要な画期となったテクストを読み直してみようと思います。

いま「古典」という言葉を使いましたけれども、だいたいどこの世界でも「みんなその名前は知っているけれども実は誰も読んだことがない」というのが古典の定義、なんて冗談があるくらい、ほとんど読まれてはいないのではないか(笑)。
まあ、ここにいらっしゃった方の中には既に読まれたという人も多くいらっしゃるとは思いますが、そんなこともひとつひとつ見直していこうと思います。

例えばベンヤミンだったら『複製技術時代の芸術作品』だとか、バルトだったら『明るい部屋』というのが代表的な写真論だと考えられてきているけれども、実際に『複製技術時代の芸術作品』がはたして写真論かといえば必ずしもそう言えるものでもなくて、むしろ「写真論」という点に重心を置くなら、ベンヤミンにおいて重視すべきなのは『写真小史』だろうとか――もちろん『複製技術時代の芸術』は重要な論文ではあるけれども――、あるいは別の観点から、彼がシュルレアリスムについて書いたものをもう少し重視した方がいいのではないか。

また、バルトの『明るい部屋』というのはとても印象的な写真論なんだけれども、写真論として扱うと非常に大きな歪みができてしまうというか、結局は母への追憶を主題とした彼の私的な物語として読んだ方がむしろ良いのではないか。例えば写真を撮る人間にとってバルトの見る側からの読みのアプローチというのは、いったいどのような役割を果たすのか、そのようなことを考えていくとちょっと分からないですね。
バルトにはその他にも日本語版編集で『映像の修辞学』という本が出ていますが、あるいは『映像の修辞学』と中身はほとんどかぶっているのですが、『第三の意味』という本が出ていて、むしろこの本の中に入っている「写真のメッセージ」というバルトの記号学者的な仕事の時期の短い論文ですけれども、こちらのほうが写真論としては重要だろうと。あるいは使いでがあるだろうと。

そういうものが、重要な写真論と言われているものの陰に隠れて、でも写真について考えるためにちゃんと読んだ方が良いのは本当はこっちじゃないか、というような疑問を持っていまして、折に触れて考え直す機会を作っても良いかな、と。
実際にテキストを読んでみて「なんだやっぱり「写真のメッセージ」よりも『明るい部屋』の方が断然面白いじゃないか」とかね、そういうふうに思ってもらっても全然かまわないんだけれでも、とりあえず今まで書かれてきた写真論というものを実際に読み直してみようじゃないか、と。そういう機会を作ってみたいなと思って今回の企画を立ててみました。

世の中に写真論といわれるものは沢山あるわけで、これは僕が学生だった1980年代後半の状況からみればほとんど考えられないくらいの状態で、写真評論家や専門の研究者の仕事がコンスタントに出版され、また、そうした「専門家」以外の人たちが写真について一冊本をものにするということが一気に増えた感じがするのは、実際のところ2000年代に入ってからかな。それまでは写真について書かれた本などというものは何年かに一冊出ればいいほうでした。
それに写真評論家が書いた本、例えば東京綜合写真専門学校の創立者で亡くなるまで校長を務めていた重森弘淹さんの『写真芸術論』や『世界の写真家』ですとか、同じ学校で教えていた田中雅夫さんの『写真130年史』とか、そういった本が一応、ロングセラーとしてありましたが――これは写真学校の授業で教科書として使われていたり、他に写真論の本自体が少なかったりという事情もありますけれども――、そういう例外的なものを除けば、この方面で出版されても版を重ねて読み継がれるものというのはほとんどありませんでした。
その他にも金丸重嶺、渡辺勉などの写真評論が1970年代後半くらいまでなのかな? それなりに読まれていたようですが、それでも読者層はごく狭い範囲に限られていたという印象があります。

それでも、決定的な転換という形で写真論というのが注目を集めた時期というのがあって、それが1968年の『プロヴォーク』の創刊ですね。「言葉のための挑発的資料」という副題を掲げ、中平卓馬や多木浩二が中心となって、同人は他に詩人で美術評論家の岡田隆彦、写真家の高梨豊、それから2号から加わった森山大道がいました。
実際にはお金がなくって刷り部数が500くらいだったかな? 当時の所謂「ミニコミ」で、のちに「プロヴォークの影響が云々」と言われるほどには、おそらく実際には読まれていなかったんじゃないかとは思いますが(笑)、ただ、そうは云っても当時、その影響力は写真の世界に留まらず無視できないものがあった。

――プロヴォークって写真の雑誌ですか?

そうそう。

――そこに文章も書いてあった?

そうです。
要は1968年から69年くらいにかけて「アレ・ブレ・ボケ」という言い方で一括されていた写真表現の牙城と看做されていたのが『プロヴォーク』です。この雑誌が刊行され、そうした動向に対しての反発というのが『アサヒカメラ』などの既成の雑誌メディアからバッシングのような形で起こって、むしろそのおかげで写真業界内でも注目されることにもなったんじゃないかと(笑)。で、尖鋭的な表現を模索しいていた若い人たちは圧倒的にプロヴォークを支持したという時代的な状況があるんだけれど
も、でも、そんな中でも実際に読んでいた人の数はごくごく知れたものだった、と。ただ、当時のデザイン、建築、映画関係の雑誌メディア、写真業界では『カメラ毎日』を通じて、プロヴォークが体現していた同時代的な写真表現と言説状況とが横断的に結びつき浸透していったことには留意しておきたい 。

言説面に焦点を当ててみれば、ある意味で『プロヴォーク』に掲載された写真論どうのこうのというよりも、むしろ1973年に中平卓馬が『なぜ、植物図鑑か』を出したことが重要だったという気がします。
その前に、1970年にプロヴォークが解散するときに『まずたしからしさの世界をすてろ』という単行本が出ていますが、『なぜ、植物図鑑か』が数年に亙って版を重ね、それが継続的に読まれることで既成の写真業界の言説を担保していた言葉とは全く違う地平を開いていった、とは言えると思います。プロヴォークと同時代的な60年代後半の学生運動の頃よりも、むしろそのちょっと後に松田政男らの風景論ともリンクするかたちで読まれていったという側面もありました。

いまのは日本の状況でメルクマールとなった一時代の話ですが、ここではもう少し、基本的には日本の写真論の歴史というのを一度見ていこうと思います。
ちなみに、1980年代に入ってからは『カメラ毎日』の休刊というのが1985年、それから翌86年には『PHOTO JAPON』が休刊となります。この二つの雑誌がわりと評論に力を入れていて――『PHOTO JAPON』は創刊当初はそうでもありませんでしたが――、飯沢耕太郎や伊藤俊治っていう人たちが写真評論家としてそれらの雑誌を発表の場にしていったというのがあります。

1980年代にはもう一人、西井一夫さんがいましたけれども、このひとはもともと『カメラ毎日』の編集者だった方ですね(のち、同誌休刊まで編集長)。毎日新聞社の社員で、1960年代後半くらいに『カメラ毎日』に配属されたのをきっかけに写真のことをいろいろ書くようになって、実際に彼が本を出すようになったのは1980年あたりかな、そのへんあたりから写真評論家として著作を出し始めています。

1980年代というのは西井一夫という写真評論家が出てきて、それからちょっとあとにそれより後の世代の飯沢耕太郎とか伊藤俊治とかが写真評論家として著作を発表し始めて、写真評論家の世代交代というのが誰の目にも見えるようになってきたという時期です。他には谷口雅、平木収、金子隆一といった団塊世代の人たちの活動が活発になってきた。それまでの重森弘淹とか田中雅夫、金丸重嶺、渡辺勉という人たちは著作を出すことをしなくなったりとか亡くなられたりしてフェイド・アウトしていった感じなんですけれども。
そういう形で世代交代が起こったのが80年代半ばから後半にかけてでしょうか。このへん、タイムラインみたいなのを作って確認してみた方がいいかもしれませんね。

1989年にはダゲレオタイプの発表から数えて「写真誕生150年」ということで、いろんなイヴェントとか写真の歴史を振り返ろうという企画や展覧会が翌年の1990年にかけていくつかありました。
それから1990年7月には飯沢耕太郎さんが『deja-vu』という写真雑誌を創刊します。もっとも、『deja-vu』が写真評論の場としてどうだったかといったらそれはちょっと疑問で、それまで写真が専門でなかった人たちを写真を論じる場に呼び込んだっていう役割はある程度果たしたんだけれども、それが定着したかといえばそこはちょっと疑問なんですね。例えば小林康夫さんとか吉増剛造さんとか今福龍太さんとか、そういった人たちが写真を論じるといった場所を提供したとは思うけれども『deja-vu』から育っていった写真評論家と言える人は多分いないと思います。そういう意味では評論の場としてはあまり求心力がなかった気がしますけれども。ただ、写真という表現ジャンルにそれまであまり関心を払っていなかった人たちが写真を論ずるきっかけになったとか、そういう役割はある程度担っていたのではないかと思います。

――ちょうど「151年目の写真」とかの企画がいろいろあって、あのときに小山穂太郎さんとか現代美術の人たちが写真を使って、という流れがあって……。

そうそう、佐藤時啓さんとか森村泰昌さんとかね。

――写真の評論家以外のところから写真を評論するっていうのも同時的に起こってくるような。

ただ、そのあとに継続的に写真を論じている人って本当に数少ないわけで、それも散発的になんで。しかもそのあとしばらく新しい写真についての書き手っていうのがなかなか出てこないなって時期が結構長かったんです。

けれども、2000年前後くらいに京都の方で「写真研究会」っていうのをやってる人たちがいて、中心メンバーは小林美香、佐藤守弘、前川修、青山勝。この四人がコアになっていたんだけれど、それまで写真を専門にしていた人たちじゃなくって、例えば前川くんはもともとベンヤミンの研究者でベンヤミンの痕跡論とかをやっているうちに写真と深く関わるようになっていった人で、佐藤くんというのは、もともと早稲田のパンクスで……、いや、それはどうでもいいんだけれども(笑)、もともとは江戸泥絵の研究をしていて江戸時代後期の日本の視覚表象というのを扱っていくうちに――言ってみれば江戸時代のニュー・メディアといったものを考えていくうちに――、そこから段々と写真に接近していく。青山さんは、もともと文学と精神分析についての研究をやっていたのかな、そこから視覚表象と精神分析との接点とのところで写真に引っかかって写真研究の方に……、といった具合に大学の研究者が写真研究の分野に積極的に参入していく。

そこで、なぜここで京都の写真研究会に注視しているかというと、そのあとのそれぞれの展開の仕方も面白かったというのもあるのですが、そもそもそれまでは写真評論家とか写真研究者というのがディシプリンとしての写真研究の場でないところから写真評論を書くようになったケースがほとんどで……、これはまあ、大学でも写真学科がほとんどない、あったとしてもカリキュラムが撮影その他の実技中心であったことからも当然といえば当然なんですね。
大まかに言えば、(東京都)写真美術館の学芸員でお坊さんの金子隆一さんなんかが典型的ですけれども、趣味が昂じてというか、いわばディレッタントとでも言える人たちが手探りで評論家なり研究者なりになっていったというケース。それから新聞社とか雑誌社の人とか、編集者の経験があってそこから写真評論家に転身していくっていうパターン。
傍から見れば飯沢さんや伊藤俊治さんはもうちょっと意識的というか、彼らは大学時代から写真研究を独自に始めたんだけれども、そのころはまだ写真を研究するためのフィールドというのがアカデミズムの中でまだしっかりと整備されていなくって――論文指導なんかでも芸術学部のディシプリンの中で担当教員は別に写真研究でもなんでもない人たちがやっていたりとか――大学出たあとはそうした学会とか大学的なアカデミズムの世界からはわりと切れたところからやっていて、活動の場を雑誌ジャーナリズムの世界に見出していく。まあ、伊藤俊治さんなんかはそのあと大学の先生という形でアカデミズムの世界に戻っていってしまうんだけれども、もともとは大学っていう制度とあまり関係ないところで、ジャーナリズムの分野で書いている人たちがそれまでの主流だった(時代的にはちょうど「ニューアカ・ブーム」というのとも重なって、そうした流れの中でそれまでとは違った写真の見方、語り方というのが求められていくような風潮もそれを後押しした側面もあったと思います)。
それが2000年ごろから大学教育のところから写真批評、写真理論というのがだんだん関心が持たれていく、というよりもむしろ大学に所属している研究者たち写真を研究対象として批評や理論を生産することがひとつの流れになっていく。もちろん、それまでも個別に写真研究を行なっていた人たちはいたのですが、ディシプリンとしての写真研究の条件が次第に整っていく訳ですね。その画期になったのが京都の写真研究会の存在だったというふうに考えていいと思います。

今は2019年ですから、それから20年近く経っているのですけれど、それ以降は批評とか理論とか実際にはどこまで深化しているのか。ちょっと微妙なところではあるのですが、このへんのことはおいおい見ていくことにしましょう。
あとこれは雑誌ジャーナリズムの衰退というところとわりとパラレルなところだと思うのですけれど、写真評論の場というのがジャーナリズムよりもどちらかというと大学の紀要ですとか、2000年代以降に目立った特徴ですが美術館のキュレーターが評論家を兼ねる場合とがあって、アカデミズムと美術館のキュレーターというこの二つが言説装置として大きく働いているというふうに考えるのがベターだと思います。
これは写真だけではなく現代美術のほうなんかでも実際そうで、例えばドクメンタのディレクターだったヤン・フートですとか、ハンス・ウルリッヒ・オブリストですとか『関係性の美学』のニコラ・ブリオーといった海外のキュレーターが言説的な力を持ってきたという1990年代以降顕著な動向もあって、これがいわば後押しする形で、日本の言説環境もグローバリゼイションの波をかぶっているようなところがあるんじゃないかと思っています。

(続く)

 

 

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