2016.5.3 - 5.15
石垣裕 Ishigaki hiroshi
131415/The Range of Demands
35mm モノクロ 11×14in. 120枚
いしがきひろし・略歴 >>
終了しました。
ギャラリートーク!2016.5.15(日)18:30〜
山内道雄×石垣裕×星玄人(3rddg)
定員25名 要予約 500円(1ドリンク付き)
「カメラの機械性は特殊的・写真的なもののはじめである。しかし写真芸術のはじめではない。写真芸術のアルファは、カメラの背後にある人間である。しかも社会的存在としての人間 ー 社会的人間である。」
1932年、『光画』に寄せた論文『写真に帰れ』のなかで、伊奈信男は「カメラを持つ人」は社会的な存在でなければならないと説く。社会生活や自然を、記録し、報道し、解釈し、批判するのに適した芸術=写真。その内容が優れたものであるためには、優れた人でなくてはならない。カメラと人間、写真と社会、それらは社会的人間によって、より良き関係を目指さねばならぬ。個として揺るぎない存在であれ。
カメラという機械と主体的な人間による近代芸術としての写真。
伊奈信男の考える近代写真や戦後のリアリズム写真のように、対象だけでなく、撮る行為そのものに意味が与えられていた時代は終わった。もはや撮影主体が何らかの役割を意識しつつ写真を撮ること、写真家と呼ばれる存在が主体としての特別な意味を持つことなどないだろう。
だが、今もかろうじて、カメラの背後には人間がいる。頼りなく。それは私だ。
優れた人でないにしろ、自らの生きる世界へカメラを向ける。そこがどんな場所であるのか、共に在る者は誰か。単に生き、単に撮るなかで見えるものは何か。何ら役割もなく、ただ知ろうとすること。
2013年から2015年にかけて、気まぐれに東京を歩いた。特別な場所に出掛けた訳ではないが、ずっと以前に比べると、街中で政治にまつわる文言や、実際の行動をよく見かけるようになった。
現実の政治は、時としてそれと気づかない不可視なものでもあるが、いまの日本において、権力の保守化や政治の機能不全、それに対する民意の表れが、日常の生活のなかで目につくほどに問題になっているのだと思う。
それにしても、自己実現や自分探し、他の誰でもない「私」でありたいという思いすら、資本に惑わされ、何処にも辿り着けずにいるようなこの国で、なおも自由で自発的な個としての「私」であるためには、どのように生き、どのように振る舞えばよいのだろうか。
石垣裕
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