2018.6.19 - 7.1
新山発現 Niiyama hatsugen
incident
6×7判 モノクロ 16×20in. 23枚
にいやまはつげん・略歴 >>
写真から根拠や意味を無くす事はどれだけ可能なのか。
自分が撮った写真は他人事としか見れない一方、他人の写真はまるで自分が撮ったように見られるのは自分だけだろうか。
「何故これを撮ったのが、セレクトしたのが、展示しているのが赤の他人で自分ではないのだろう。」…。
例えば以前、ある人の展示を見て自分の事として「写真=羊羮」説を唱えたのだが、あまり理解されなかった。というか写真に触発され口走っただけなのだが。後で考えたら自分もよく解らなかった。言われた作家はなおさら当惑しただろうが。が、その「解らなさ」には写真から触発された自分なるものが現れてはいないだろうか。せっかくなので説明したい。
写真は四角いフレームに枠どられ、ある瞬間を切り取った断面であり、丁度それは羊羮のようなものだろう。四角いし。ある現実を切り取った断面としてのフレーム=写真が現れるが、仮に切らなかったとしよう。そこには断面の無い棒羊羮がひたすら続いていく状態を想像しおののいた、という事なのだが。
つまり仮に何枚かの写真=羊羮の断面の背後には潜在的に始まりも終わりもなく棒羊羮が産出されており写真=断面を見た時のみそれを垣間見る事しかできない。そんなことに人は果たして耐えられるのだろうか?いや耐えられない。
とある写真家がこんなことを言っていた。「最新の説によれば、宇宙には時間という概念は無く、ひたすら空間だけがビッシリ詰まっている。まるで写真だよね。」と。恐ろしい事だと思う。「まるで棒羊羮じゃないか。」絶句した。「エクソシスト」リーガンに「お前は宇宙で死ぬ。」と言われた宇宙飛行士の気分だ。
宇宙じゃなくても現実そのものでもいいが、羊羮を切り断面を見た時のみ宇宙を垣間見ることができないのだとしたら、羊羮の断面=写真は切り続ける事でしか姿を垣間見せないだろう。しかし本当にそうなのだろうか。嘘をついてる気もしてきました。
試しに写真を撮ってみよう。写るかもしれないし写らないかもしれない…根拠も意味も無ければ無いほど良い…何故なら日常のそこかしこに写真は現れるのを絶えずうかがっているのだから。
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