2020.2.25 - 3.8
柴田裕哉 Shibata yuya
Y / Y
APS-C digital
カラーインクジェットプリント A3ノビ 22枚
しばたゆうや >>
仕事が早く終わったので久しぶりに桶にお湯を溜めて、本を読みながら長々と浸かっていた時、鼻水が垂れてお湯に落ちた。下を見るとそれは鼻水では無くて鼻血だった。
段々と撹拌されていく自分の血液。その血液の範囲が徐々に広くなり、水面に写った自分の黒い影をじわりじわりと浸食していった。
言葉に表せない気持ちを抱えて、これの写真を撮ろうと思い腰に力を入れた。だが自分が身体を動かした瞬間に目の前で繰り広げられている血と影の攻防が終わりを告げてしまうことに気付き、僕は身体の力を抜いてそれが終わるまでただた
だ見つめ続けた。
ほんの数十秒の出来事だった。 自分がお湯に浸かっているという何気ない時間が数十センチ先で起きている出来事にレンズを向けることさえも不可能にしてしまった。 対象にレンズを向ける欲求がどこから生まれどこに向かうのだろうか。 もし、血と影を撮れたとしてもそれが良い写真かどうかわからないし、先の出来事を撮ろうが撮らまいが現実は変わらない。だがレンズをむけていない時間、自分は管で繋がれ去勢された動物のように感じてしまうことがある。桶の中はまさにそれに似た状況だった。
写真を撮る欲求を押し込められた僕は、為す術もなく 目の前の現実に対峙するしかなかった。 消化不良のまま頭を洗い、体を洗い、目にはもうすでに見えないが栓を抜いて血の混ざったお湯を捨てた。 お湯が流れていくのと同じに何かを忘れていくようだった。
写真は記録という言葉を何度も耳にはしていたが、自分の中でその意味が漠然としていて理解しきれないでいた。 だけど、この一連の出来事を通じて、「何か」を切り出し見つけていくこと、そ れを具体化していくことが「記録」の一部なのではないかと思った。
自分の影を自分の血で染めていくことが世界から一部を切り取り、繋げ、また世界を構築する。 自分の方向へ引き剥がした世界を自分を通して新しい世界に還元する。 その還元されたものは写真(記録)という事以外一体何なのだろうか。 ただそこにある、もしくはあった現実のみである。 そしてその写真が何を写しているのかを理解する事はあの日の血と影を撮る事以上に難しく、不可解なものである。 |