2021.2.16 - 2.28
柴田裕哉 Shibata yuya
REACHING FOR HEAVEN
APS-C digital
カラーインクジェットプリント A3ノビ 252枚
しばたゆうや >>
「感覚」とは言い訳に過ぎないのであろうか?
言葉や文字を的確に用いるということは物事の状況を断定し、個人の思考や思想を他人に論理的に確実に伝えることが出来る。それは人間が社会で生きていく上で必要不可欠なもので、その人の価値を計る一つの物差しのである。相手に伝わらないと意味がない。
とある友人に、「感覚性」が高いからといって、「論理性」が乏しくていい理由にはならない。と言われたことがある。
確かにその通りだと思った。だけど写真を撮っている自分の中で矛盾が生じているのは否めない。
例えば絵画や映画などは0からいろいろな要素を構築し、それを混ぜ合わせて制作している。その「前提」にはほぼ確実に製作者の意図が絡んでくるはずだ。偶然性が存在するとしてもそれはほんのわずかな要素でしかない。
一方で写真は、目の前にある物事を記録しているに過ぎない。
意識、無意識に関わらず、ただの枯れた花や汚れた壁が写真に収まることで急に何らかの意味を持ち始めるし、例えば電車の駅のホームで一枚、写真を撮る。でもたったそれだけの行為で意図しない膨大な情報が一枚の写真に組み込まれる。そのほとんど「前提」のない写真も何らかの意味を持ちうる。写真を撮る行為に意識が潜在するが、フレーム収まったものには意識と無意識が混在するという矛盾が生じる。その無意識さを言語化する行為にはどんな意味があるのだろうか。
「文化の最も有害な作用は語彙を作ることである。」
ジャン・デュビュッフェ『文化は人を窒息させる』
この言葉は人間の規律でもある言葉による伝達を真っ向から否定しているように感じる。確かに美術館やギャラリーに作品を見に行き、見る側に作品を押し付けてくるような説明を見ることが多々ある。もちろん、その作品への理解を深めようとする時に説明は欠かせないし、補助的な面もある。ただ、説明が過ぎると、本来、自由であるはずの表現が固着してしまい、意味の氾濫を必要以上に食い止めるだけになってしまう。本当は言葉を使わずに自分の中に渦巻いている感情を写真にぶつけてしまいたい。でもそれがひどく難しくなかなか思うような形になってくれない。だから言葉を使わなければならない。自分の写真を見ていてとにかく苦しい。音だけでぶつかり合うジャズのように写真だけでぶつけたい。
『この心の叫びをまえにして、理性は無力なのだ。こうした欲求に刺激されて覚醒した精神は探求を開始する。が、見出されるのは矛盾と背理的な論証、ただそれだけなのだ。ぼくに理解できぬものとは条理を欠いたものだ。世界は、こうした理性では説明のつかぬものにみちみちている。ぼくには世界の唯一絶対の意味は理解できない。それだけで、世界はひとつの非合理的なものにすぎない。せめて一度でも「これは明らかだ」と言えれば、いっさいは救われよう。しかし以上に述べた人々は、なにものも明らかではない、いっさいは混沌だ、だから人間はただその明瞭な視力を保持し、自分をとりまく壁を明確に認識するしかないと、競いあって宣言するのである。』「シーシュポスの神話」アルベール・カミュ
写真の場合、感覚と論理の矛盾が成立するのではないかと思う。
ぼくは自分の写真を説明する術をまだ持たない。
写真が僕の思う表現だとするならばそれに対する言葉はほとんど力を持たないと思う。
それは言い訳に過ぎないかもしれない。自分の無力さを認めるのであれば、それは言い訳と認めざるを得ない。
ただ、僕が言葉を勝ち得たとき、それは写真を撮ることを辞める時かもしれない。
柴田裕哉 |