2021.6.22 - 7.4
新山発現 Niiyama hatsugen
inert matter
6×7判 モノクロ 16×20in. 23枚
にいやまはつげん・略歴 >>
「無限大」という表示が備わっているからにはカメラは無限大を計測する機械なのだろう。見渡す限り水平線地平線に囲まれていようが、四方を壁に囲まれた独房であろうがピントをそこに合わせれば無限大を指し示し、計測されてしまう。カメラが在るというだけで無限はそこかしこに遍在し対象は無限を潜在する。
写真は現実の表層をひたすらコピーし続ける一方で、現実のこちら側と向こう側をあからさまに分断する。例えばの話、通りがかりの松屋の店頭に昨日まで無かった「ゴロゴロチキンカレー」の宣伝写真があったとしよう。あなたの現実はこちら側とゴロゴロチキンカレー写真の向こう側に分断され、たかが広告写真とバカにしつつも「昼食はゴロゴロチキンカレーか。」と思うはずである。ゴロゴロチキンカレーの写真を見て「ゴロゴロチキンカレーとはこういうものか。納得、以上。」という者は居まい。
写真が無限大を指し示すのならばゴロゴロチキンカレー写真の無限遠には、金銭のやり取りという経済活動や日々の労働、ひいては自己や他者の社会活動を指し示しているのであり、要は無限遠とは「今ここ」である、というあからさまな事実を突き付けてくるのだろう。
昔何かの本で読んだのだが、高性能の望遠鏡で宇宙の果てを見ると、自分の後頭部が見えるのだという。私が何を見ようが関係ない。写真は常にあなたや私の後ろ頭から見つめ続けているのである。
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