2024.4.9 - 4.21
宮沢豪 Miyazawa tsuyoshi
影を撮む
35mm カラー タイプCプリント 16×20in. 16枚
みやざわつよし・略歴 >>
凝視する意味としない意味
写真は自動書記的であるべし、とか、現実のphotocopyであれ、などと殊更に言いたてる人達は、一眼レフの小さなファインダーをグリグリと隅から隅まで覗き込んだり、組み立てカメラのグラウンドグラスをルーペで仔細に観察するような撮影はあまりしないと思うのだが、そのような撮影方法を採った場合においてさえ、出来た写真には先述した事が当てはまるし、つまりは避けて通れない性質として最初からそれらが写真そのものに包含されていると言える。
機械の眼、アノニマスな視線がキャプチャーした画像には、人間が頭で考えて付与するイメージや記号とはおよそ関係の無い何かが等価に記録されている。しかしひとたびそれらを拾い上げようとすれば、あれよと指の間からすり抜けて逃げて行ってしまうというジレンマがある。
(閑話休題、猫を撫でる)プロセスの話をしよう。自分の場合、撮影する時に比較的じっくりファインダーを覗いて細かくアングルを微調整する方だと思う。しかし被写体の事をよく見ているかと言うとむしろ逆で、ぼんやりとしか眺めていない。そのかわりピントやら何やらは細かく調整する。これはただただ後々プリントする時のノイズを極力排除する為で、これでいけるかどうかは撮影の時点ではよく分かっていない。ネガ現が上がって来てベタを取ってネガとベタをルーペでよく観察する。この時初めて写っている物を凝視する。
そして凝視に耐えられるか否かを判断する。引き伸ばして見られる事に耐えうるかどうか。これをウン10年、ウンウン唸りながらやっている訳であるが、いつまで経っても撮影時に「100%出来た!」と確信を持てた試しが無い。従ってもうそれは諦めて、少なくとも引き伸ばしの時に後悔しないようなネガを作ろうと撮影に臨んでいる次第である。
2024年4月 宮沢豪 |